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【プライベートな話】父は最後の最後まで立派な人でした

2023/07/18

2023年7月15日AM1:00
私の父が74歳で亡くなりました

 

 

思い返せば祖母が亡くなって数カ月後の3年半前に父の直腸がんが発見されました。

 

それから、いくつもの手術、抗がん剤治療、放射線治療・・・ありとあらゆる治療を重ね、少しでも希望のある方法があると聞けば挑戦していました。

 

どこもかしこも痛くて、寝たくてもゆっくり寝れないし、つらい。

 

母や周りの方が心が折れそうなくらいで、父はほとんど弱音も吐かず、懸命に病気と向き合っている姿を見てきました。

 

亡くなるちょうど1カ月前からあまり食事ができなくなり、入院することになりました。

 

『もう一つだけ抗がん剤治療がある』とお医者様に聞いていて父は『やりたい』と言っていたけれど、ひとまず体力をつけなければ治療に挑めないからといったん断念していました。

 

今までの感じだと、点滴で栄養を入れてもらい少し免疫力や体力が付くと自然と少しずつ食欲が出ていたりしていたので、今回もそんな感じですぐに退院して帰ってくるものだと思っていたのですが・・・

 

『もう治療してあげられるすべがありません。自宅から近くの緩和ケアの病院へ移りませんか?』と提案された。

 

そして、祖母が最後看取ってくださった自宅から割と近い病院へ転移しました。

 

その病院は、訪問診療も行っている病院で、少し調子が戻ってきたらおうちに帰って通院しなくても先生が来てくれるという方法もあったので、最終そうなることを目標にしていました。

 

だけど、途中高熱で肺炎になりそのあとどんどん調子が悪くなっていきました。

 

長期のがん患者さんは、がんで亡くなることよりも感染症を患ってなくなることの方が多いそうです。

 

肺炎は治らないけれど、熱が微熱まで下がってきていた、7月7日姉とランチに行っているとき、母から突然電話が来て『今からお父さんが病院から医療タクシーで一時間だけおうちに帰れるようになったからもし実家これるなら来て』とのこと。

 

すぐに実家に向かいました。

 

ちょうど田植えシーズン。

 

3年前までは田んぼの世話をすべてしてきた父にとって一番田んぼのことが気になる季節です。

 

そのことを看護師さんにお話ししていたようで、実家に帰る途中に自分の田んぼに寄り道してもらい、今年は兄が植えてくれた稲を見せてくれたそうです。

 

ストレッチャーを下すのも大変なのに、わざわざみんなで下してくれて、母と写真まで撮ってくださって。

 

おうちの居間にストレッチャーで下してもらい、たった一時間だけど、母、姉、兄、孫1人、私と過ごすことができました。

 

その時も記念写真を撮ってくれました。

 

これが、最後の家族写真となりました。
その後、病院に帰ってから回復することはなく、耳はしっかり聞こえているので反応はしてくれるものの、おしゃべりはほとんどできずにいました。

 

病院を移ってから面会は1時から3時の間であれば自由に行くことができるようになり、母のことが心配なのもあったので、姉と私で順番に代わりながら父に会いにってました。

 

13日木曜に私が行き、次土曜日、主人と息子と3人で会いに行く予定にしていたので『また土曜日来るね。楽しみにしててね~』といってバイバイしたのですが
14日息子の三者面談を終えて電車で帰っているときに姉から『お父さん息が荒くなってきているから時間外でも大丈夫だから早めに来てってお母さん呼ばれたみたい』というLINEが来ました。

 

万が一のことも考え息子に『今からおじいちゃんに会いに行く?どうする?明日までもしかすると間に合わない可能性も出てきた』というと『すぐに行こう』と言ってくれたので、駐輪場に自転車を置いたままその足で病院へ走りました。

 

会いに行った時には母も後から言っていたお嫁さんと姪は帰っていて、父一人でした。

 

『お父さん!今日は○○(息子の名前)と一緒にきたよ』というと、肩で息をしてしんどいはずだけどうんうんうなずき
『おじいちゃん、○○やで。会いに来たよ。』というと少し微笑みうんうんとうなずきました。
『今日三者面談あって、その足でこっちに来たよ』というと嬉しそうでした。

 

そのあとずっと目は開けたまま反応はせずだったので、黙って見守ることに。

 

これ本当の最後の父の写真となりました。

 

なんとなく悪いながらも安定しているかな?と思ったので『5時になったら帰ろうか』と息子に伝えていたら
そのあと突然パッと目を大きく開き、手を上まで開けて、口をパクパクさせて何か伝えようとしているように思いました。

 

手を握り『どうしたん?お父さん。何か伝えたいの?』と聞くけれど結局わからず。

 

でもそれを3回ほど続け、その間ずっと『大丈夫やで。大丈夫。』と話しかけていました。

 

少しまた落ち着いたころ、『また明日来るね。だから待ってて。明日まで頑張るんよ。』と伝えましたがもう反応はなかったのでそのまま退出することに。

 

息子が最後まで手を振っていたのですが、その手に目は向けていてくれていたようなのでそれが最後の反応だったようです。

 

 

もうあんな大きな動きをする姿をずっと見ていなかったので、心の中で希望を持ちながらも腹をくくらなければと思いました。

 

その日の晩ずっと眠れず目を開けたまま天井を見つめていると、12時過ぎたころ寝室の天井に白い影のような靄が見えて、パッとベットから起き上がりました。

 

すぐにその靄は消えてしまいましたが、夜中1時20分ごろ兄から『お父さんが眠るように安らかに逝きました』と連絡が来ました。

 

母が病院から電話が来たのが12時頃だったそうなので、おそらくその靄は父だったと思います。

 

最後の数日、点滴も外されていたので、父の生きたいという思いだけで数日間頑張っていたのだと思います。

 

その姿を見て息子と『おじいちゃんはカッコいいね。最後までずっと立派だったね。』と話しました。

 

昔ながらの田舎の厳格で厳しい父。

 

でもにじみ出る子供好きなところは、気の利くことや子供に媚びることをせずにしてもたくさんの子供に慕われていました。

 

※遺影の写真を探している際に、定年退職のお祝いでみんなで旅館で会食した14年前の写真が出てきました

 

 

74歳って今の時代、逝くには正直早いだろうと思います。葬儀に来てくださっていた近所の人や親せきの人も口を揃えてそう言いました。

 

まだまだ楽しい時間を過ごせていたであろう年齢です。

 

だけど、定年退職前から準備していた船舶免許を取り、今まで少しずつ貯金をして貯めたお金で中古の船を買い退職後は10年ほど魚釣りを楽しんでいました。

 

地域のとある会での旅行なども夫婦で3回ほど行ってきました。

 

そんな姿現役時代の父からすると考えられないくらい丸くなったなぁと驚きながらも、うれしく見ていました。

 

父が16の頃に、父の父は亡くなったので、古い田舎の本家の家のこと(農家)と仕事のこと(公務員)と、いろいろ大変で決して悠々自適に過ごせた人生ではなかったと思います。

 

本当に苦労した人だと思います。

 

自分自身一人っ子で、大人数でワイワイ囲まれるのに憧れ、母と結婚し3人の子供ができ、5人の孫に恵まれ、最後は父の理想の形で本当に幸せだったはず。

 

私たちが想像する以上に早く逝ってしまったけれど、とっても立派で尊敬する父で、父の子でよかったと心の底から今思っています。

 

16日お通夜で17日お葬式が無事終わり、今日からまた日常が戻ります。

 

数日間ろくに寝れていないので、体調気を付けながらゆっくり通常に戻していこうと思います。

 

お父さん、最後に私に言った『兄弟3人仲良くしてくれたらそれでいい』という言葉。

 

あえて末っ子の私に言ったんだよね。

 

年の離れた天真爛漫な末っ子の淳子はピリピリした家族間を中和されるために生れて来たんだと自負しているよ。

 

しっかり見守っていて。

 

きっと大丈夫だから。最後の言いつけしっかり守るね。

 

無駄話をした記憶がほとんどないけれど、しっかりあなたに愛されて育ちました。

 

私はあなたの子供で本当に幸せでした。